古い「櫻座」と甲府の町衆

山国甲府の真ん中にある甲府盆地。この街は江戸の頃から活気のある街でした。甲州街道がその頃の文明・文化を繁く運んでいたのです。後に(昭和14年)甲府に住んだ太宰治は、『新樹の言葉』の中で、「きれいに文化のしみとおっている街である」と甲府に思いを寄せています。古い「櫻座」については、劇作家で演出家でもあった小柳津浩が「山梨の演劇」の中 で次のように書いています。

―時代が変遷して「文明開化」の明治に入ると武士階級が失業したため、「芝居小屋」は一時衰えを見せていた。この原因の一つに、時の県令藤村紫朗が明治6年12月に納税の布告を発してから興行成績が悪くなったことも上げられる。しかし、明治も8、9年になって、世間も穏やかになると、再び甲府の「芝居熱」は高まり、明治9(1876)年8月、魚町の魚商人三井与平によって桜町2丁目(今の中央1丁目)に三井座(後の櫻座)が建てられる。大商人亀屋与兵衛が顔役として全甲州の興行権に対抗した開座だった。

三井座は後の明治17(1884)年に櫻座と改称されて、その3月9日に披露興行をしています。中村時蔵と坂東秀佳の一座が演じています。さらに、明治3(1890)年8月には桜町4丁目(今の中央1丁目)に移され、規模を大きくしています。その後、明治35(1903)年には、三日町新道(今の中央4丁目)寄席「巴亭」が劇場となったり、佐渡町通りの相生町(今の相生3丁目)に舞鶴館(後に甲府座と改称)が設立されて、甲府の街は歌舞伎芝居が持て囃されています。

しかし、時の流れは新しい芝居(新派)が大衆の関心を集め始めていました。甲府へは、日清戦争前後に壮士芝居の創始者角藤定憲が来演して話題となり、新時代に即応する演劇の到来に人々は新たな期待を持つようになります。この頃一方では、日本に移入された活動写真が大衆の心を捉え始めています。

時代が大正期に入ると、芝居に対する興味も歌舞伎から新時代の演劇に移っていきます。櫻座で上映された「トスカ」「鶴亀」「玉手箱」などの近代劇も好評を博しました。明治・大正・昭和初期と時代と共に流れて、浮き沈みしていた芝居場も、活動写真に始まった映画の時代には勝てず、次々と映画館となっていきます。遂に昭和5(1930)年11月、櫻座は百貨市場となり姿を消すことになります。

一流の歌舞伎役者や芸人たちが甲府の芝居小屋で役を仕上げて東京の公演に臨んだと聞かされると、明治年間から大正期にかけての人の往来が激しかった甲府の古い櫻座 が懐かしく思い出されます。

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